アドリブする理由―その1
この記事は前回のつづきです。まだ前回の記事を読まれていない方は、先にこちらを読まれることをお勧めします。
前回はアドリブ(インプロビゼーション)に対して否定的な意見を並べ立ててみました。今回からはそれに反論していこうと思います。
作曲のプロセスを考える
アドリブはリアルタイムの作曲ですので、まず作曲について考えてみましょう。作曲するとなると楽器を使いますよね。あるいは歌うかです。メロディーやコード進行を思いついたら、それを忘れないうち五線紙に書くなり録音するなりして記録しているはずです。逆に演奏せずに論理的に考えて作曲していくことも、思いついたメロディーを楽器を使わず五線紙に書いていく事も可能でしょう。実際、ベートーヴェンは聴力を失ってからも創作を止めませんでした。しかし何かやむを得ない理由がない限り音を出して確認するのが普通ですよね。要するに作曲中はアドリブみたいな事してる訳です。
演奏できない楽器のパート譜を書けるのか?
作曲する時は楽器や機材の事をよく知っておかないといけません。各楽器の音域や奏法に熟知している必要があります。しかしここが問題です。すべての楽器を高いレベルで演奏できる人などいません。そして、書いた事を音にして確認するには各楽器の専門家に頼むしかありません。頼まれた演奏家も楽器の事をよく知らない人が書いた譜面を見てどう思うでしょうか。自分で自由にやった方がいい、と考えるかもしれません。
例えば、ピアノニストがドラムのパート譜を作るとします。ドラムの素人が作ったドラム譜を凄腕ドラマーに渡して「きっちり譜面通りたたいてくださいね。」と言えるでしょうか?ピアニストが管楽器や弦楽器の簡単なアンサンブルなら書くことは出来るかもしれませんが、ドラムスの一つ一つの音を指定して、それでいい感じのリズムを作れるでしょうか?
作曲家から何等かの指示は必要だと思いますが、細かいところはそれぞれの楽器の専門家に任せた方が良い結果になると思いませんか?
クラシックでも問題となる専門性
クラシック音楽は作曲家がすべてを書いていると思いがちですが、そうでもないようです。最近好きになってよく聴く作曲家なんですが、ドイツ音楽三大Bの一人ブラームスの例を挙げておきます。ブラームスは音楽仲間によく相談していました。友人に宛てた手紙にその記録が残っています。ブラームスは名ピアニストでもありました。そしてピアノの前にはヴァイオリンとチェロも学んでいて、全くヴァイオリンの事を知らない素人ではなかったのです。にもかかわらずヴァイオリン協奏曲を書くにあたっては、友人で名ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムに何度も助言を求めています。特にカデンツァ(ソロパートのようなもの)については諦めた感すらあります。クララ・シューマン(恩師ロベルト・シューマンの妻で名ピアニスト)に送った手紙はこんな具合です。
「それにまた、ヨアヒムは練習のたびに私の作品をいっそう美しく弾いていますし、カデンツァは当地での演奏会までにとても見事なものになりましたので、聴衆は私のカデンツァだと思って、それが鳴り止む前に拍手をしてくれたほどでした。」
ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、3大ヴァイオリン協奏曲の1つと称されるほどの名作ですが、それには名ヴァイオリニストのヨアヒムが相当に貢献していると考えて間違いないでしょう。そして、これはブラームスに限った話ではありません。ベートーヴェン、チャイコフスキー、メンデルスゾーンも名作と謳われるヴァイオリン協奏曲を書いていますが同様です。これらの作曲者は皆ピアニストですが、それぞれ名ヴァイオリニストの協力がありました。
一人で創作を行うと、作曲者自身が専門でない楽器では、楽器独自の奏法や表現に限界が生じるため、すべてを高いレベルで創作するのは難しい、という問題が生じる訳です。
複数人数での音楽創作には即興演奏
という訳で、作曲者が一人ですべてを決定するのを諦めて、細かいところはそれぞれの演奏者に任せる事にしたとします。作曲者は大まかな指示を出すものの、各パートの詳細は演奏者がそれぞれ創作する事になるわけです。そうなると、各パートの演奏者は別パートの演奏者がどんな演奏をするのか知る必要があります。各パートの演奏者同士のコミュニケーションを密にしなければなりません。それなら、一か所に集まって話し合い、音を出しながら作った方がよさそうです。
こうしてメンバーが集まって曲を完成させる事になったとします。ドラマーは自分が考える最高のリズムを提示し、ピアニストはハーモニーを提供し、管楽器奏者はメロディを、ベーシストはベースラインを、思いつくままに演奏する、といった具合に創作していきます。このとき誰かが出した音がヒントとなって新しいアイデアが生まれるかもしれません。なんでもいいから意見を出し合うといい案が思い浮かんだりする訳です。
演奏家のレベルが高い場合は、相互に及ぼす良い影響がかなりあるはずで、たった一人で創作を行うより、演奏しながら仲間とアイデアを交換して音楽を作りあげていく方が良い結果が期待できるのではないでしょうか? そして、この状態は即興によるインタープレイに限りなく近い訳です。
実際、トップレベルのジャズ・ミュージシャンの演奏を聴いていると、これこそが理想的な音楽創作方法なのではないかと感じられるほどです。
要するに、楽器や機材の専門性が高くなればなるほど、一人だけで全てを考えるのが難しくなり、分業化が進み、その結果、各専門分野同士の連携が重要になるのでインプロビゼーションが有効な音楽創作の手段となり得る、という事です。
これがアドリブをする理由の一つです。アドリブする理由は他にもありますが、それの前に複数人数で創作を行う場合の問題を掘り下げてみましょう。
複数人数で創作を行う場合の問題
各々が自由気ままに創作を行えば、まとまりのない、何を言いたいのか訳の分からないものが出来上がりそうです。例えば、ジャムセッションではそういった事が問題になりがちです。以前の記事
「個性的な曲を演奏すると見えてくる問題」
で言及していますが、その中からブラッド・メルドーの言葉をもう一度抜粋しておきましょう。
「プレイヤーたちがお互いまるで文脈もなく、それぞれが自分の得意技を演奏しているだけで、しかも意図的にそうしているのではないのが問題で、ただ自分たちがすでに知っているものを演奏しているに過ぎず、知っていることの出所は勝手きままで多様な音楽源なのだ。」
リーダーがいかに方向を示せるか
このような問題を避けるためには、グループ全体の方向性を一致させる事が大切で、誰かがリーダーとなってそれを明確に示さないといけません。ジャズ界で優れたリーターと言えば、マイルス・デイヴィスが思い浮かびます。
マイルスは共演者に詳細に指示をしていたようです。先輩であるセロニアス・モンクに「俺のバックで弾くな」と言ってケンカとなったというエピソードがありますが、ピアニストがホレス・シルバーでもハービー・ハンコックであっても不自然なほどにピアノを弾いてない曲があります。マイルスは、ここでは弾かないでほしい、というような指示をよく出していたのでしょう。マイルスの場合、リーダーとしての我の強さが名盤を生み出す素地となったのは間違いないでしょう。少しでも気に入らなかったら先輩であっても容赦せず、何よりもサウンドを優先する姿勢が伺えます。
しかし、ジャズは個性を大切にしないと生き残れない音楽なので、演奏家に特定のスタイルを強要すると人間関係にひびが入ったりします。そのため人選が大切になります。
マイルス・デイヴィスの初期の名盤である “Walkin'” と “Bags Groove” では、ドラムにケニー・クラークを起用しています。その理由をこう述べています。
「ケニーを選んだのは、オレが求めていたサウンドにアート・ブレイキーより細かい陰影をつけることができて、変化に富んだ演奏ができると思ったからだ。ケニーがアートより良いドラマーと言うんじゃない。ケニーのスタイルこそ、あの頃オレが求めていたものだったんだ。」
これはマイルスにはしっかりと意図するサウンドがあり、それに適した演奏者を選んでいたことがよくわかる発言です。
マイルスの場合、強いリーダーシップが音楽には良い方向に作用したと思われますが、悪く言えば我が強すぎる訳で、それはそれで色々なトラブルの原因となっていたようです。アルバム “Milestones” のレコーディングでは、ピアニストのレッド・ガーランドを怒らせてしまい、レコーディングの途中であるにもかかわらず帰ってしまいました。そのため “Sid’s Ahead” という曲ではマイルス本人がピアノを弾いています。なんというか…邪魔をしない機械的で微妙なバッキングです。当然トランペットソロ中はピアノレスです。そして “Billy Boy” という曲では、ガーランドが怒りをぶつけるようなすごい演奏をしています。なぜかこの曲はピアノトリオです。なだめようとしたのかもしません。「俺はこういうスタイルなのだ!」と言わんばかりの名演でガーランドのベストの演奏だという人もいるほどです。
演奏家個人の音楽 VS 作曲家の音楽
この問題を考えると、これはつまり、演奏家個人の好みや音楽性と、全体の調和を重視する作曲家のせめぎ合あいであり、音楽制作における政治問題といっても過言ではないでしょう。
少し乱暴に言えば
「トップダウンで全体主義のクラシック、ボトムアップで個人主義のジャズ」
です。全体主義の国は名君だと繁栄し暴君だと衰退します。リーダーの出来不出来がそのまま出てしまいます。逆に民主主義を徹底させた国では、その命運は民衆のレベルに委ねられますが、それはそれで失敗続きの歴史があります。そんな訳で素人の多勢の意見だけでなく専門家や少数意見も取り入れましょうと、多くの国で直接民主制ではなくて間接民主制になっている訳です。
また、現代の会社組織や仕事についても同じ事が言えます。製造業であれサービス業であれ、分業やアウトソーシングは当たり前の世の中です。親会社や発注元が何の指示も出さず、専門分野に長けているという理由で子会社や発注先の業者に自由で勝手きままな仕事をしてもらっても、上手くいかないでしょう。
DAW等を使って一人で音楽を作るのであれば何も問題はありません。しかし複数人数で創作を行う場合、メンバーがお互いに気を使いすぎるとそういった事が曖昧になってしまいがちなので、誰がリーダーで指示をどこまで出すのかは明確にすべき、という共通認識は最低限必要です。
結論
楽器や機材の専門性が高くなればなるほど、一人だけで全てを考えるのが難しくなり、分業化が進み、その結果、各専門分野同士の連携が重要になるのでインプロビゼーションが有効な音楽創作の手段となり得る
しかし、これだけでは説明できないケースがあります。ソロ・インプロビゼーションの場合です。ソロピアノ、ソロギターの名盤は結構あります。ジャズでは一人での創作でもインプロビゼーションしています。
という訳で、次回はソロでもアドリブする理由を考えてみます。
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